Corporate family tree
  1899年から1985年の86年間に5つの会社が合弁し、そして、今日の、AUDI AGとなった。
  左図の数十年間の系図を参考にしてもらうことで、それまでの各社のロゴや会社名の変革を理解していただけるであろう。

上段左から
1909 Audi/1907 DKW /1899 Horch
               /1885 Wanderer / 1873 NSU
2段目  1932 Auto Union AG
3段目  1949 Auto Union GmbH
4段目  AUDI NSU 1969 Audi NSU Auto Union AG
5段目  1985 AUDI AG                
   
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August Horch 1868 - 1951

  アウグスト・ホルヒはアウディの歴史の中での中心人物であり、また、ドイツの自動車史の中でも重要な人物の一人である。 彼は、非凡な机上での技術理論の持ち主というだけでなく、最も適当な時期に、当を得た場所で、自分の理論を現実化するにまさにたけた人物であった。
  しかし、ライターとしてのアウグスト・ホルヒを知る人は少ない。1938年に彼は「Ich baute Autos(私は自動車を作る)」という自分の自動車史を発表している。その後、1949年に、「Aus Meinem Leben(私の生き方から)」という書名で、ナチズム色を一掃したものが再販されている。そして、2冊目は、「Mein Freund, der Automobilpastor(自動車牧師とういう私の友人)」という著書であった。

Horch 10 - 12 PS Tonneau
 1902年にアウグスト・ホルヒは、自分の会社をドイツ国内のケルンからフォートランド州のライヘンバッハに移した。そして、すぐに新型車の開発を開始した。 
 この自動車は、10から12馬力を持つ2気筒エンジンが搭載されており、後輪は、この頃の主流のベルトドライブでなく、シャフトドライブが採用されていた。また、トノ式ボディーで、2列シートが装備され、後席へは、後部より乗り込む方式であった。
同型車? 少し形が違うと思うが...。       →
Herkomer competition
 
ヘルコマートライアルは、ドイツ系イギリス人画家だった、サー・フンベルト・ファン・ヘルコマー氏とプイマン教授によって創設された。そして、1906年にホルヒ社のシュテス教授が優勝している。このレースに参加するための自動車のレギュレーションとして定められていたのは、背もたれ付きの4人分の実用的な座席、ボンネット、マッドガードが装備されており、かつ、鞄と道具の為の荷室が有る事であった。ヘルコマー・トライアルは、「広い範囲の購買層に現実的で、信頼性のある自動車を供給する為の開発」をねらいとする耐久レースであった。

 注)1910年には、ポルシェ博士がオーストリア・ダイムラー社のドライバーとしてこのレースで優勝している。また、レースの内容は、はっきりしないが、当時、800kmの公道をゆっくりと走り、一部の区間でスピードランとヒルクライムが存在したとの情報がある。
 
 
Benzine or benzol?

  1900年頃に、ベンゼンは、ガソリンの代替燃料と成り得るかどうかの検討がなされた。 ベンゼンは当時、都市ガス生産途中でできる廃棄物であったが、自動車のエンジン燃料としても使用可能であったからである。しかし、結果的には、ガソリンが市場を圧巻する事になる。理由は、ガソリンの長所である、その優れた燃焼特性であった。

  最初の頃は、薬屋などで販売を行っていたが、その後、裏庭や地下室などに在庫を持つまで拡大していった。 そして、1923年にハンブルグで、いわゆるガソリンスタンドがオープンされたのがドイツ国内最初となる。その後、アイアン・メイデンとして知られる自立式のポンプが急速に広がっていった。1939年頃は、1リッター、42ペニヒ(現在の貨幣価値にすると、約3ユーロ(400円)であった。 そういうわけで、ドライブというのは、非常に贅沢な仕事であり、特にこの頃の自動車の燃費は、100km走行するのに、10から20リッターを必要とした。

注 釈 ) 
   アイアンメイデン (独語だとEiserne Jungfrau) 
   直訳すると「鉄の処女」。中世の拷問具。鉄製の棺桶の形で正立させて使用し、内部にはたくさんの釘が取り付けられていた。その表面には、少女の顔が彫られていたのでこの名前があるという。棺桶を立てた様な形が、スタンドの給油ポンプに似ているからか。 また、同じ名前のロックグループがあり、過去に全日プロレスの中継時に聞いた様な...?

   燃 費
   日本で普通使われている形にすると、10km〜5km/Lという事です。
The Wanderer "Puppchen"
  ヴァンダラー社で最も有名な「プップヒェン」シリーズには、W3とW8という正式なモデル名があるのだが、ほとんど知られていないのかもしれない。
  1912年にベルリンで初演されたジーン・ギルバートによるオペラの歌に由来するプップヒェン(独語でかわいいものの意)という愛称で、W3とW8の両モデルは知られる事となった。
  「かわいいもの、私の目の輝きの様な...」で歌い出すと、それにつられて、ヴァンダラー社W3モデルも舞台の上を動き出す様に、ギルバートの歌も、このヴァンダラー社のこのモデルも当時の大人気となった。 そして、ヴァンダラー社は、「プップヒェン」のモデルを、その後14年間製造し続けることとなった。

Exclusive network of dealers
  1920年代、1930年代の自動車販売ディーラーというのは、複数のメーカーの自動車を販売するというのが普通であった。自動車の絶対的な販売台数が少なかったからである。 例えば、ホルヒを販売しているディーラーが平行して、オペル、シトロエン、ブレンナボールを販売していたのである。
  販売台数が伸びるにつれ、広範囲のモデルに対して、アウトウニオンがディーラー宣伝に関してガイドラインを設定し、それをディーラーに対し強制し始めると、フォーリングスのアウディ、DKW、ホルヒ、ヴァンダラーの4つのブランドも、競合他社との併売を禁止する事になる。
  但し、アウトユニオンは、販売委託ディーラーと、自身の展開する直販ディーラーの双方による販売を行っていた。
Audi 14/35 PS, Typ C, Phaeton
  アウグスト・ホルヒの”Audi”ブランドの3番目のモデル。特にこのタイプCは、その完成された、最も成熟したデザインを持つモデル。ホルヒ自身も、「このモデルは、少なくとも10年は、今の時代より先をいくデザインを持つ」と自画自賛した模様。
  このタイプCは、そのデザインだけでなく、1912年から1914年のオーストリアアルペンラリーで3連覇を達成し、その性能をも世間に知らしめた。
  その結果、この”アルペンの覇者”は、1925年まで製造が続けられ、この時代の最も成功したAudiのモデルの一つとなった。

  
DKW Front F1, Roadster
  DKW F1というモデルは、AudiとDKWの歴史にとって、また、一般的な自動車という2つの意味で注目されている。2座シートを持つこの小型車は、1931年に発表され、前輪駆動車(FF)として世界で初めての量産モデルであった。また、この時代のドイツ市場での最も安価なモデルでもあった。DKWのボスであったラスムッセン氏のアイデアから始められ、ツヴィッカウのAudiにて開発された。このF1モデルは、特に世界大恐慌(1929〜)の影響下では、当時の、単車の簡単な2ストロークエンジンをのせる事を余儀なくされた。  
The 1932 fusion
  世界恐慌が契機となりドイツ国内の自動車製造メーカー各社の再編成が一気に進むこととなり、最終的に、もちろんアドラー、オペル、BMW、メルツェデス、フォード、メイバッハを含む11社となった。アウディ、DKW、ホルヒ、ヴァンダラーは単独での存続は難しいと判断し、サクソニア州立銀行のリードにより、アウトウニオンAGの元に合弁することとなる。 これにより、4,100人の従業員とともに、オペルに次ぐドイツ国内、第2位の規模の自動車メーカーとなった。
 現在においても、合弁戦略は、近代的な手法であり、良く知られているが、個別のブランドが開発、製造、販売における相乗効果を期待し、且つ、唯一独自性を保持し続ける事が可能だったのである。

写真は、当時の株式証券。 額面は、1,000株。
The German Ladies' Automobile Club (D.D.A.C.)
 1926年5月18日にドイツ婦人自動車クラブが設立された。当時のクラブの名誉発起人会は、このクラブの設立は、「すべての女性の友情のたまもの」という声明を発した。当時の発起人代表として、ルーシー フォン リンシンゲン男爵夫人、その後にカタリナ フォン カルドルフ-オハイム男爵夫人が就任。また、このクラブの設立目的としては、モータースポーツへの女性の参加、法規や技術に関する女性の社会的な地位向上、個別の自動車の運転技術の指導などであった。
 D.D.A.Cの設立当初は、社会的に上流階級の女性ドライバーで組織されたが、今日は、伝統と革新を同時に、快活な方法でもたらす未来志向のクラブとなっている。 詳細は、www.ddac.deにて入手可能。
 * D.D.A.C. = Deutsche Damen Automobil Clubの略
 
Women as a target group

  1920年代に自動車メーカーは、販売対象となりうる女性の市場を発見することとなる。 このころ直面していた、販売対象となる男性の絶対的な数の不足と男女同権という観念の第一波とがこの新しいマーケティングの後押しをすることとなる。
  上・中流階級の女性は、自動車こそが、自己決定と自立の象徴と考え始めた。 この潮流にのるべく、アウト・ウニオン社は、顧客となるべき女性たちに、「女性の為の雑誌」を発表し、その中で、男女同権への実質的な進め方や男女同権を推進する者たちへのお互いの協力を訴えた。 その後の1934年に、この雑誌は、「新しい女性」に名前を変える事になる。
Streamlined design
 20世紀初頭、まだ、自動車と馬車に速度の違いがそれほどない頃に、エアロダイナミクスという観念は、一般的であろうはずもなく、ただ、その頃でも航空技術関係者たちにはよく知られていた。1920年代始めに、自動車が時速100km/h超を記録した後に、Audiは、科学者のポール・ヤライ氏のエアロダイナミクスボディに関する実験をサポートした。そして、そのテストドライブにおける、エアロダイナミクスボディは、高速度と好燃費に貢献するという結果を示すこととなる。現実的には、このストリームラインというデザインは、顧客には評判が悪かったが...。 1930年代の世界最高速度への挑戦が組織的に行われる様になってからは、飛躍的にこの観念が一般化する事になる。 既知の様に、現在は、エアロダイナミクスをテストするための空洞実験室なしでの自動車開発は常識となっている。
Two-stroke engine
  AUDIの歴史の中で、2サイクルエンジンの果たした役割は無視出来ない程重要である。 1918年に技術者のヒューゴ・ルッペが、簡単で、軽量な自転車用の補助エンジンという事で開発したのが始まりである。これが、DKW社のオートバイ界でのサクセスストーリーに繋がる。1928年にDKW社が初めて2サイクルエンジンを自動車に搭載、そして、その後、1949年にアウトウニオン社が、それ程高価ではない実用的な2サイクルエンジンの製造をインゴルシュタットで始めた。2サイクルエンジンの特徴としては、少ない構成部品によるそのシンプルなデザインとピストン2行程中に一度点火するということにより、比較的高出力を得ることが出来る。4サイクルエンジンが主流の今なお、2サイクルエンジンは、軽量化が要求されるオートバイやオートバイレースで珍重されている。ただ、逆に短所としては、比較的燃費が悪いことと、そのシンプルな設計上、潤滑油を燃やさなければならず、これが、今日の厳格な排出ガス規制の障害となっている。
DKW RT 100
  1934年 DKW社は、2.5馬力のエンジンを搭載した、小型のオートバイを、RT100というモデル名で、且つ、廉価で販売した。2年後の1936年には、エンジン出力が3馬力に上がり、高出力モデルRT3PSとして知られ、その信頼性やデイユースとしてのバイクの性格だけでなく、レースの分野でも成功を収めた。その後、1940年までに62,000台が販売される事になる。


DKW 350 SS
  プライベイトライダーのレース参戦用に作られたDKW 350 SSは赤と黒にペイントされ、ワークスライダー用は、シルバーグレイのペイントとされていた。 プライベートライダースペックは、そのエンジンパワーが少し劣るだけのわずかの違いだけで、サスペンションに関しては、全くの同じモノが装備されていた。
しかし、DKW 350 SSは、レースにほとんど参戦されない間に戦争が始まってしまった。

DKW RT 125E
 このモデルは、第2次世界大戦後に初めて生産されたものであるが、設計自体は、戦前のモノであり、ほんの少しの変更で生産されることとなった。4.75馬力の2ストロークエンジンに3速ギアが組み合わされ、足で踏む変速ペダルが採用されている。1950年の終わりに、伸縮式のフォークが採用され、1952年には、5.6馬力に増強されたエンジンモデルも発表された。1954年には、6.4馬力にまで増強されることとなる。そして、この年には、リアサスペンションも搭載されることとなった。


Motorcycle successes
 1950年代にDKWは、二輪車レースで無敵の強さを誇った。特に名の知れたライダーとしては、アウグスト・ホーブル、ジークフリード・ヴンシェ、エヴァルト・クルーゲ、ヘルマン・ポール・ミューらーの名が上がる。1950年の早々に、DKWは、125ccまでのクラスに複数のライダーで48勝し、ドイツ選手権での優勝を手にした。 1952年にDKWは、熟成した3気筒・新型350ccエンジンをデビューさせ、驚かせた。いわゆる”歌うノコギリ”(シンギング・ソー)として有名なエンジンである。エヴァルト・クルーゲは、1952年に、”Eilenriede champion"となる。このバイクは、すべてのクラスで最速となったことから特別賞を受賞した。
Tourist Trophy
 TTと呼ばれる英国のTourist TrophyバイクレースでのDKWとNSUの伝説的な功績は忘れられない。 エヴァルト・クルーゲ (1938年)とジークフリード・ヴンシェ(1953)の二人が、マン島でのこのレースで優勝している。1967年にこの勝利に敬意を表し、NSUは、プリンツ1000という名前からプリンツ1000TTに変更した。このTTレースの名声は、20世紀を通して変わることなく続いている。このレースが最初に行われた時には、最も危険で長距離の過酷な気象条件下で行われるレースという認識が今に至っている。
Model-making
 1930年代半ばに行われたAuto Union社内部の統合に従い、新モデル開発時の規格化が徐々に進み始めた。技術部長であった、ウィリアム・ヴェルナーの指揮の元で、Auto Unionのボディデザインにアメリカ式のスタイリング要素が導入されることになる。シリーズの生産が開始される以前に、すべてのモデルにおいて、ケムニッツ市にある中央開発デザインセンター(ZEKB)に所属するスタイリストたちによって、1/5のスケールモデルで再現された。彫刻家のヴィルヘルム・ボーム-(左写真参照)-もZEKBに所属しており、また、ウィリアム・ヴェルナー自身も-(素人離れした彫刻の才能を持つ)-モデル作成のプロセスに加わる事もあった。
Drive systems
  前輪駆動? 後輪駆動? 4輪駆動? 駆動方式として、すすんでいるといえるシステムを考察してみると、まず、後輪駆動は最も古い形式であろう。また、前輪駆動方式が紹介される以前には、既に軍用自動車のモノとしての4輪駆動方式は存在した。   前輪駆動の最も難しい技術が必要とされた、舵取りができる駆動シャフトが実用化される様になって、前輪駆動システムが大きく前進した。 しかし、本当の実用化は、ドイツで初の前輪駆動車(DKW F1)が生産に入る1931年の事となる。 そして、他と比較できない程安価な自動車でありながら、滑りやすい路面での前輪駆動の安全性が、 他の高価で大型のサルーン車よりも優る事を知らしめる事となる。 前輪駆動、後輪駆動双方のシステムは、各々の欠点を改良され続け、今日、その差は極小なレベルまでに到達している。 但し、唯一4輪駆動のみが、すべての面において他の駆動方式よりも少しずつ優れていると言えるのではないか?
Crash tests
 1938年より、事故時の車両の状態のテストが、Auto Unionで行われていた。これは、今日の衝突安全性試験の先駆とも言える実験が、Auto Unionのケムニッツ市にある中央実験工場(Zentrale Versuchsanstalt, ZVA)にて行われていたことに由来する。
 5m長の振り子を車体にぶつける事により、車両に対する衝撃実験とした。また、側面衝撃テストは、ミサイルの発射機の様なモノに丸太をセットし、車両側面に発射することで代替えとした。加えて、車両転倒テストに関しては、ポツダム市近郊のゴルム市にて行われ、急な坂道をひっくり返されて転がされる事でテストとされた。しかし、1941年に戦争勃発により、これら一連のテストは中断されることとなる。


Rotary-piston engine
 自動車の基本的な発見・発明は、ほとんどと言っていいほど19世紀中に行われている。当然、他の内燃機関をも含んでの事実である。もちろん時代の経過とともに常に様々な改良が加えられて来た。 今日のエンジンは、その先駆のモノと比較して、共通点のかけらも無いように見えるが、その作動原理というものは、100年の時を越えてもそれほど変わってはいないのである。それは、ガソリンエンジンだけに言えることではなく、ディーゼルエンジンにも言えることなのである。 但し、ただ一つ、全く新しいカタチの内燃機関は、1960年代に作られていた。フェリックス・ヴァンケル氏が、ロータリーピストンエンジンを作った時である。そして、そのエンジンは、例えば、有名な、NSU Ro 80に装備されたのである。

NSU Ro 80
 技術でのアバンギャルド。
 このNSU Ro 80は、1967年に開催されたフランクフルトモーターショウに初めて登場した。そのデザインたるや、従来にはない、全く新しい時代のモノと評価された。特にその漸進でエレガントなデザインが、今まで誰も気が付かなかったモノと評価された。
  加えて、その精巧な走行メカニズムと、NSUとして初めての前輪駆動方式がこのNSU Ro 80に与えられ、同時に安定した走行性能がもたらされる事になる。そして、最も注目すべき点は、2ローター方式のロータリーエンジンが装備されているところであり、そのエンジンは、今までにない、スムーズな動きをすることが特徴であった。
  1968年には、カー・オブ・ザ・イヤーに輝き、1977年までその生産が続けられることとなる。そして、同時に、長い歴史の中でNSUの名が冠された最後の乗用自動車となった。

A Holistic Work of Art : The Automobile
 
自動車工業の初期には、車体製造は、馬車のものと同じように考えられていたが、20年代より、徐々に芸術的な要素が加味されて行くこととなった。
 1928年に、ホルヒ工業の大株主でもあったモーリッツ・シュトラオス博士が、ベルリン芸術学院で教鞭をとっていた、オスカー・W・H・ハダンク教授
に、ホルヒ 8型の305と306シリーズのデザインの見直しを依頼したことに始まる。ハダンクは、ゼネラルモーターズ社製のLaSalleモデルのサイズとスタイルの要素を新しいホルヒ タイプ350に移植し、それが、すばらしい結果を生むこととなり、1930年までにほとんど、2,850台を製造することとなった。




Wanderer W 25 K
 そのスタイルでとりわけ目を引くW25Kスポーツカーだが、そのパフォーマンスでも注目すべきものがある。スーパーチャージャーの追加により、フェルディナンド・ポルシェ氏設計の6気筒エンジンが85馬力のパワーを持つに至った。驚くべき事に、これは、1936年に発表されたW50モデルのほとんど2倍の馬力であった。もちろん、そのエンジンにはスーパーチャージャーは装備されてはいなかった。
 このW25Kは、最高速度、約150km/hにも達することができた。また、サスペンションも、アウト・ウニオン社のリア”フローティング・アクスル”が路面への追随性が格段にアップされた。 アメリカの影響を受けた現代的なスタイルは、1936年のヴァンダラーW51にて発表され、それは、その後のアウト・ウニオンの後継車にも引き継がれていくこととなる。
 
Wanderer W 40 Cabriolet
 ヴァンダラー社は、1.7Lと2.0Lの排気量を持つ6気筒エンジンを手みやげに、アウトウニオン社と合弁した。 その6気筒エンジンは、1930年初期にフェルリナンド・ポルシェ博士によって開発されたエンジンである。 
 軽量合金製のシリンダーブロックを持つ、この新型パワーユニットは、1932年の新型ヴァンダラーW15モデルに初搭載され、それを基盤に年を追う毎に少しづつ進化してきた。
 ヴァンダラーの最終モデルには、新型シャシーと前輪独立懸架サスペンションが搭載され、加えて、エンジンはポルシェ製のモノが使われた。
Love letters to DKW
  1950年代に、アウトユニオンは、DKWのユーザーから受け取った手紙を紹介する小冊子を発行した。
...3,900kmを既に、問題なく走行している。この自動車の、得に山の険しい坂道では、信じられないパフォーマンスを発揮している。セント・ゴットハード峠までは、特に南から昇ると険しい坂とヘアピンカーブが続く難所であるが、何事もなかった様に昇ってしまう... 
   差出人氏名 : ヘルマン・プラッテ 
    住所     : クラウセン通り 8番 ブレーメン


Auto Union 1000 SP
 自動車評論家たちは、このAU 1000 SPを「言語障害を持ったサンダーバード」だと評した。変速ギアがニュートラル位置での2サイクルエンジンが出す吃音を表した表現である。
 そのアメリカテイストなデザインで、特に1950年代後半のテイストを持つ自動車として知れ渡っている。先進的なデザインであったパノラマウインドゥシールド、鮫の様なフロントグリル、加えてテールフィンを持ち、スプートニック(ソ連の人工衛星の名)という愛称で呼ばれていた。
 1965年3月にインゴルシュタットの工場で、6,644台目に当たるAU 1000 SPが生産され、これがこのモデルの最後となった。
Horch 8, Type 303, Pullman Limousine
 ドイツ国産初の8気筒エンジンモデル。 
 1926年の秋に
ホルヒ社が、当時のドイツのエンジン技術の粋を集めて発表したモデルである。 このDOHC型直列8気筒エンジンは、ポール・ダイムラー(ゴットーブ・ダイムラーの息子)によって開発されたモノであった。 オープンツアラーのカテゴリー中で、このモデルの最もベーシックなグレードでさえ、ドイツ国内の最も豪華な自動車に匹敵した。
  8490OHCエンジンが建造されたのは、このモデルの生産を終了する1931年よりも以前の事だった。




DKW Schwebeklasse (Floating Class)
  1934年に発表されたDKWモデルは、”フローティングクラス”(浮動クラス)として知られている。
  この呼び名は、そのサスペンションの形式である、フローティングアクスル機構によるものであり、このモデルで初めて装着された。前後輪の車軸にハイマウンされたト横軸バネがその特徴である。 それにより、曲がり角での車体の位置を安定させる事ができた。そして、DKWはすぐに特許を取得する。 また、自動車のスムーズな走行に関して、フリーホィール制御付き4速変速機が大きな貢献をしている。つまり、滑走する場合の、2サイクルエンジン特有の、パチパチやガタガタを減らし、また、燃費向上にも貢献していた。 そして、この空力ボディを持つ”シュヴェーベクラス”は、その後のエアロダイナミクスデザインの先取りともいえるものであった。
   
Number plates (Autokennzeichen)
 1945年までは、ドイツ帝国の自動車には行政上の地区や地域別に登録されていた。 1930年代半ばには、軍関連機関や公共団体には、特殊な登録番号が与えられていた。

Wuerttemberg (ヴルテンベルグ)    
III A Stuttgart
III C Backnang, Boeblingen, Esslingen
III D Leonberg, Ludwigsburg, Stadt Heibronn
III E Landkreis Heibronn, Vaihingen (Enz), Waiblingen
III H Balingen, Calw, Freudenstadt, Horb
III K Nuertingen, Reutlingen
III M Rottweil, Tueblingen, Tuttlingen
III P Aalen, Crailsheim
III S Schw. Gmued, Schw. Hall, Heidenheim, Kuenzelsau
III T Bad Mergentheim, Oehringen
III X Biberach, Ehingen, Goeppingen, Ulm
III Y Muensingen, Ravensburg
III Z Saulgau, Friedrichshafen, Wangen, Stadt Ulm

 Preussen (プロイセン)
I A Reichshauptstadt Berlin
I B Provinz Posen

I C Provinz Ostpreussen
I D Regierungsbezirk Westpreussen
I E Provinz Brandenburg
I H Provinz Pommern
I K Nieder- und Oberschlesien
I L Regierungsbezirk Sigmaringen
I M Provinz Sachsen
I P Provinz Schleswig-Holstein
I S Provinz Hannover
I T Provinz Hessen-Nassau
I X Provinz Westfalen
I Y Regierungsbezirk Duesseldorf
I Z Rheinprovinz (ausser Duesseldorf)

Andere (その他)
IV B Baden
M   Mecklenburg
HB Bremen
S  Sudetenland
Th Thueringen
L  Lippe
HH Hamburg
HL Luebeck
SL Schaumburg-Lippe
B Braunschweig
Saar Saarland
A Anhalt
W Waldeck

Bayern (バイエルン)
II A Muenchen
II B Oberbayern
II C Niederbayern
II D Pfalz
II E Oberpfalz
II H Oberfranken
II N Nuernberg-Fuerth
II S Mittelfranken (ohne Nuernberg-Fuerth)
II U Unter-bzw. Mainfranken
II Z Schwaben und Neuburg

Sachsen (ザクセン)
I  Kreishauptmannschaft Bautzen
II Kreishauptmannschaft Dresden
III Kreishauptmannschaft Leipzig
IV Kreishauptmannschaft Chemnitz
V Kreishauptmannschaft Zwickau

Hessen (ヘッセン)
V H Hessen (ab 1937)
V O Provinz Oberhessen (bis 1937)
V R Provinz Rheinhessen (bis 1937)
V S Provinz Starkenburg (bis 1937)

Oldenburg (オルデンブルグ)
O I  Landesteil Oldenburg
O I  Landesteil Luebeck
O III Landensteil Birkenfeld


DKW Schnelllaster (rapid delivery van)
  第2次世界大戦後におけるアウトユニオンの再建の立て役者となったのがDKWであった。 1949年には、最初のDKW製の自動車が発表された。 
  F89L型ラピッドデリバリーヴァンは、小規模のビジネスに必要な物資の輸送の為に開発された。 また、RT125W型モーターバイクは、個人の為の小さな物資の輸送に発表された。前輪駆動方式で2サイクルエンジンを積むF89L型モデルは、ハノーバーで開催された、1949年春の展示会にて公表された。 そして、このモデルは、戦後復興時の物資輸送の問題を解決できる理想的な自動車だった。 F89L型は、特に職人たちの仕事場として重宝された。 1951年の末までに、11,504台のこのモデルが、5,795.-ドイツマルクのベース価格で販売された。F89Lは丈夫で実用的な自動車としての代名詞となった。
The DKW 3=6 Sonderklasse
 DKW製 3=6 ゾンダークラスは1953年に最初に紹介された。 このモデル名となっている3=6の意味は、3気筒2ストロークエンジンでありながら6気筒4ストロークエンジンのパワーと洗練さを持ち合わせているという意味からである。第二次世界大戦前に開発され、1940年に市場に投入される予定だったが、戦争の勃発ににより中止された。 しかし、DKW 3=6は、その13年後に大きな成功を収めることとなった。1959年の秋から1959年ま、ラージ3=6 F93として生産され、特に、ラリーの世界でも大きな成功を収めた。


DKW 3 = 6 Monza
 先進のスポーツドライバーであった、ハインツ・マイアー、グンター・アーレン、アルブレヒト・ヴォルフ マンツェルらの為に、DKW 3=6のシャシーをベースに、ボディをプラスティック製としたスポーツカーが1955/56年に開発された。このモデルを駆ったマイアー・アーレンス・タイラー・バーベイ・チームが、モンツァスピードウェイで1956年に行われた、クラスG(排気量1,100cc以下)にて、全戦新記録の好記録を納めた。それにより、DKWの3気筒エンジンのハイパフォーマンスを印象づけるものとなった。1956年から1960年にかけて230台のDKW 3=6 モンツァがプライベートの使用目的で生産される事となり、アウトユニオンの販売ネットワークを通じても販売された。
DKW Junior
 アウトユニオン社の戦後の歴史の中での最も成功したモデルが、この小型車であるDKW Juniorであった。 1959年に市場に投入され、このモデルには、最もDKWらしい、前輪駆動、3気筒2ストロークエンジンが設定されていた。そして、前輪トーションバーと後輪サスペンションには新設計のものが採用された。
 また、そのデザインには、その頃の最もトレンドというべきアメリカンスタイルが採用されていた。例えば、テールフィン形状や鮫の顔の様な形状のラジエーターグリルである。このJuniorの為の新しい製造設備が、インゴルシュタットに用意され、1962年からは、アウトユニオンのナンバーワンの住所となった。

Horch 855 Special Roadster
 よりエレガントに、よりラグジュアリーに、より価値のあるクルマ --- そして、その価格、22,000ドイツ帝国マルク。 ホルヒ855スペシャルロードスターは、ホルヒ社の歴史上最も高価な高級車であった。そして、この高級車は、たった7台しか作られていない。 そして、この855に搭載された直列8気筒エンジンは、120馬力の最高出力を記録し、ドイツ史上他に類を見ない最も名をはせた豪華な名エンジンでもある。 ホルヒ社は、特に、排気量4リッター以上のエンジン搭載車の買い換え市場でのシェアを55%も持つ、ドイツでも無二の高級車ブランドでもあった。
Horch 670 V 12 Sport Cabriolet
 このスポーツカブリオレは、ヘルマン・アーレンによってデザインされ、1931年の秋のパリモーターショウに発表された。 但し、この時期は世界恐慌の最中だった。 V12型エンジンは、セニアエンジニアのフリッツ・フィードラーによって開発された。 その提唱された注目されるべき技術は、7個のベアリングを持ったクランクシャフト、12バランスウエイト、追加された振動吸収ダンパー、これらにより最高にスムーズに回るエンジンが作り出された。
 特に油圧式のバルブクリアランスアジャスターは最も進んだ技術だった。しかしながら、このすばらしく完成されたエンジンは、本当に少数しか製造されていない。 たった58台のスポーツカブリオレと、20台のタイプ600のプルマンサルーンに搭載されただけであった。
1951-1954 Auto Union Ltd., Ingolstadt
 1. 本社ビル 2. サービス 3. スペアパーツ 4. 社用車駐車場、電話交換 5. 宣伝企画部 6. エンジン、ギア組み立て、電装品工場 7. 技術開発、デザイン、販売 8. ボディ、装備品 9. ヒーティング施設 10. パーツ仕上げ工場 11. プレス、金属シート保管庫 12. 型抜き工場 13. ボディ工場 14. 建具工場 15. 自動旋盤 16. 検査、バイク出荷 17. バイク生産、食堂 18. シャシー組み立て 19. 塗装行程、自動車内張行程、電気メッキ行程、商用バン生産ライン 20. 商用バン生産ライン 21. フレーム組み立て、資材置き場 22. 環境事務所、工場安全管理、緊急処置所 23. 業務部、工場技術部、購買部、経理部 24. 工具製作、機械工場、鍛冶 25. 搬入部、研究所、燃料、注油保管所 26. 鉄、パイプ置き場 27. 焼き入れ工場
Auto Union V16, Typ C, Stromlinien-Rennwagen
 タイプCは、アウトユニオン社製の最もハイパワーなエンジン開発思想の元で、16気筒のなんと560馬力を持つレーシングエンジンとして、再開発された。 このストリームライナーは、走路に初めてバンク角のついたコースである1937年のアヴス・レースに華々しくレビューした。 同年、ベルンド・ローゼマイヤーが、フランクフルトとダルムシュタット間のアウトバーンを運転し、時速400km/h以上の速度を、通常の道路で記録した。そして、その後もいくつかの世界最高速度を記録することになる。
Auto Union V16, Typ C-D, Bergrennwagen
 1938年にアウトウニオンは、ヒルクライム専用競技自動車を製作した。 その競技車は、旧タイプCと新タイプDを組み合わせて開発されたものだった。シャシーは、タイプDから、エンジンは、大型16気筒をタイプCから移植した。これは、1938年よりグランプリの競技規則が変更された為である。それは、この大型の16気筒エンジンは、ヒルクライム競技にしか使用できないというものだった。よって、1938年からは、グランプリには、タイプDに12気筒スーパーチャージャー付きのエンジンを搭載し参加することになった。 しかし、ほとんどすべてのアウトウニオン社製のレーシングカーは、第二次大戦後の賠償としてロシアに送られていた。 Meuseummobile博物館に展示されているこのモデルは、1995年にドイツに戻されたものである。このモデルが唯一アウトウニオンの「銀の矢」伝説を彷彿とされる実車であり、そして、そのフォームもいっさい手をいれられていないオリジナルのままの貴重なものである。
Bernd Rosemeyer
 それほどの高速域でのドライブという体感は全くなく、自動車は、信じられないほど静かに走り、また、素直に、ハンドルの操作に従ってくれている。 そして、ハンドルをそんなにきつく握る必要もなく、ただ、車体が振れない様に、ハンドルを軽く指の間で押さえていれば良い。ただ、ハンドルは1mmか2mm以上の大きな動きは無いほど自動車は安定している。 380km/h以上の速度域に達しても、道路のコンクリート表面の継ぎ目を通過する衝撃を感じる事ができる。 また、橋の下を通過する場合でも、胸に大きな衝撃を感じることができる。その衝撃は、自動車が移動中につくる空気の流れから発生し、それは相当の高速域でしか発生しないものである。 よって、自動車を道路の真ん中を走らせる事にそれ相応の集中力が要求される。
Why Audi?
 1965年にAudiというブランド名を、アウトユニオンを構成する4つの会社がなぜ選んだのか? アウトユニオンには、ホルヒとヴァンダラーという名前を使用する権限がなく、加えて、2ストロークエンジンで名を馳せたDKWというブランド名は、既に魅力に欠けていたので、1965年にはAudiという名前が使われる事が決定されていた。そんな理由から、”Audi”は、取締役会の決定を待つ前に既にマスコミに、新しいモデル名として取り上げられていたのである。 当時、アウトユニオンを糧としている同社のスタッフは、恣意的にこの新しいブランド名を反故にしていると疑われていたからである。
  
Audi 100
 ルードヴィッヒ・クラウスが秘密裏にすすめていたAudi 100の開発の発表を、VWの上司である、ノルドホーフ氏の前で行った1966年までは、Audiには、残念ながら、技術的な保証もAudiのブランド自体の未来も存在しなかった。 ノルドホーフ教授がインゴルシュタットに現れた時に、クラウスは、自身のデザインに関して、全く、期待していなかった。 アウトユニオンの当時社長であったルドルフ・ライディングは、ノルドホーフがAudi 100に対して、「はい」と認めた時の事を思い出す : 私たちは、クレーモデルを覆っていたシートを外した。ノルドホーフは、その回りを2,3度歩き回り、その後、すぐに彼の首の辺りが赤くなり始めた。というのは、私は彼のクセをよく知っており、これは良くない知らせという事を知っていたのだが...。ノルドホーフが、突然、「社長、このモデルの開発を続けなさい」と言ったとたん、私は、身体から力が抜けるような感覚を覚えた。
quattro
 「4輪駆動車により多くのパワーを」与えてドライブして見たい! 「そうすることで、すべての弱点がカバーされる」と、アウディのチーフシャシーエンジニアであるイェルク・べージンガーが、1977年にスウェーデンで行われたウィンタードライブテストから帰って報告した事に端をなすのが、フルタイム4輪駆動車を通常のセダンに移植していくというプロジェクトの始まりである。開発には3年を費やした。開発の源は、当時軍用に生産していた、イルティスというモデルにあった。その他にも「クアドロ」や「カラット」(Carat---Coupe All Rad Antrieb Turboのドイツ語での4輪駆動ターボクーペの頭文字から)のモデル名が候補にあがったが、最終的に「quattro」に決定されたのである。
Audi quattro
 普通のセダンに、初めてフルタイム4輪駆動方式が搭載されたモデルが、Audi quattroである。 
 もともとオフロード用に使われていた4輪駆動原理をスポーティなデザインのセダンに移植し、その走行パフォーマンスを格段に進歩させたのである。 このパフォーマンスは、前後輪への駆動力の配分を決定するデフ機構の為の中空シャフト構造が大きく貢献している。
そして、ターボ付きの200馬力を出力する5気筒エンジンが、フルタイム4WD機能を持つAudi quattroに搭載され、間違いなくスポーティでクラスでもトップのパフォーマンスを持つクラスにランク付けされることとなる。
quattro permanent four-wheel drive
 アウディがフルタイム4輪駆動を発明したのではないが、それは、通常の4輪駆動以上のモノである。 クアトロモデルでは、エンジンの駆動力が4輪に賢明に分配され、それは、より各車輪が必要とする推進力をより適切に受け取るように意志を持って分配される様なものである。
 1980年代初めに、クアトロシステムの長所をコマーシャルフィルムで表現するべく、Audi 100で、スキーのジャンプ台を駆け上がる姿が放映された。 急斜面ゆえに、フロントの車輪にかかる駆動力を極力減らし、逆に、リアの車輪に大きく駆動をかけて駆け上る姿が放映されたわけである。
 しかし、フルタイム4輪駆動の優位性が最も顕著に証明されたのは、ラリーの世界であった。

Michele Mouton
 ウォルター・ロールが、メルツェデスとの契約により、アウディラリーチームのオファーを拒否してから、チームマネージャーのウォルター・トレーザーはフランス人の女性ドライバーである、ミッシェル・ムートンと契約した。そして、1981年のサン・レモラリーでアリ・バタネンを押さえ初優勝。 これが、WRC史上初の女性ドライバーの優勝ととなり、また、Audiブランドでの初のWRCでの勝利でもあった。彼女は、チーム内では何の問題もなかったが、スポーツメディアは、明らかな女性主義の象徴と報道していた。
Audi rally quattro
 1981年が、AudiクアトロにとってWRC元年とでもいうべき大きな転換の年となった。 ラリーのサン・レモ戦で、ドライバーのミッシェル・ムートンとナビゲーターのファブリツア・ポンズのコンビが栄冠に輝いたのである。 フランス女性が世界ラリー選手権(WRC)を初めて制したのである。そして、1982年は、彼女の独断場となった。WRCのシーズンを2位のドライバーとして大活躍したのである。そして、アウディは、激戦のコンストラクター部門1位に輝いたのである。 1983年にミッシェル・ムートンが駆ったアウディ・クワトロ A2と同等のラリーカーが、Museummobile博物館に展示されている。

右の写真が展示されている実車です。
quattro victories
 Audiは、1982年にWRCのコンストラクター部門で初優勝を遂げた。その後の5年間で、Audiクワトロは、23レースに優勝し、WRC史上に残るモデルとなる。
 加えて、WRCレースのみでなく、ハヌ・ミッコラとアルネ・ヘルツ組は、1985年に開催された香港-北京ラリーに堂々優勝する。 その後の世界におけるアウディクワトロの活躍は目の見張るものがあった。ブロムクヴィスト・ベルグルンドらのクワトロチームは、特に毛色の違った下記の勝利を強調する; 
  1987年 ハンヌ・ミッコラ/Audi 200  優勝   サファリラリー / ケニヤ
  3連勝  ミッシェル・ムートン、ボビー・ウンザー、ウォルター・ロール
                     パイクス・ピーク ヒルクライム / コロラド, USA    
Audi 100 (C3)
 3代目Audi 100は、1982年に、欧州自動車工業の標準として発表され、そして、当時の先進技術が搭載されていた。 特に空力の抵抗値が、0.30を記録し、これは、当時の製造されているセダン車での世界新記録をマークしている。Audi 100には、今までにないデザイン、構造、生産技術が採用されており、空力特性のみではなく、すべての面において、「新」の冠に値するモデルであった。 そして、機能だけでなく、積極的、受動的な安全面やボディ構造も注目に値した。

TDI engine
 Audiの技術陣が、直噴式ディーゼルエンジンの研究・開発に13年もの長い期間を費やした。 直噴式ディーゼルエンジンは、元々トラックにのみ使われていた技術であった。 1989年にAudiがTDIエンジンを発表するまでは、予備燃焼システムに頼っていた。このTDIエンジンは、センサーによって計算された正確な量の燃料を、高圧になった燃焼室にピストン休止行程中に供給するシステムであった。燃焼用空気は、ターボチャージャーによって、特殊な形状をした取り入れ口を通り、燃焼室に取り入れられる。これにより空気に正確な渦が発生し、シリンダー内を回転することになる。これが、エアーと燃料の混合気の激しい気流が発生し、適確な燃焼過程を作り、強いては、非常に経済的な燃料消費を行うことができる。
Audi V8 quattro DTM
  Audiは、1990年よりドイツツーリングカー選手権(DTM)に、V8 quattroにて参戦することになる。ドライバー(というよりはこの”レーシングリムジン”の運転手と言った方が適切?)は、ハンス・ヨハイム・シュトュックであった。
 このエクサイティングなシーズン中の7レースに加え、特にホッケンハイムリンクで行われた最終戦で、その興奮は最高調に達した。それまで無敵だったBMWやMercedesをしりどけ、初参戦で頂点に達した。1991年も、Audiは、フランク・ビエラでタイトルを守る。これらの事実が、パーマネント4WDシステムがレーシングサーキットでも有効だということを証明することとなる。
 ここMuseummobile博物館に展示されているのは、1990年にタイトルを取ったハンス・ヨハイム・シュトュックの駆った実車である。

Audi Spaceframe (ASF)
 Audi Spaceframeは、1993年のフランクフルトモーターショー(IAA)で紹介された。そして、1994年にAudi A8の生産に採用されることになる。 通常、ASFは、スチール製のボディよりも約100-150kgの軽量化が図られている。そして、この軽量化によって、100kmにつき1.5リッターのガソリンが節約されることになる。
 技術的には、アルミパネルを一体化し、支持構造部材として機能させ、また、押し出し成型されたアルミ部材は、ダイキャスト・マルチ・ファンクションコンポーネントによって接続される。これらの手法が、ハイレベルの安全を保った軽量ボディを実現した。

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